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プロ塾講師が”読書感想文”を書いてみた

ふと「読書感想文」でも書こうかと思い立ちました。お題は悩んだのですが、Twitterでのアンケートで最も票を集めた「走れメロス」にしました(他の候補は「蜘蛛の糸」、「注文の多い料理店」、「坊ちゃん」)。タイトルにも書いた通り、私はプロの講師です。気合い入れます。

 

これまで数多の論考がなされた「走れメロス」について、私なりの”読書感想文”を書きます。なぜ”読書感想文”とカッコつきで書いたかというと、人生で役に立つとか立たないとか、ビジネスに有用だとか有用でないとか、そういった損得勘定抜きで感想を書きたいと思ったからです。中高生の読書感想文コンクールの字数が「2000字」なので、それに合わせていきたいと思います。本編は著作権切れのため、「青空文庫」に収められています。ちょっと読んでみようかな、という方はこちらのリンクへ(青空文庫に飛びます)

 

それでは、どうぞ。

 

 メロスは単なる引き立て役である。これには反論があるだろう。セリヌンティウスとの友情のために、そして「人は裏切ることはないという信実」を証明するために死力を尽くして走ったメロスが「引き立て役」とはどういうことか、と。

 

 引き立て役、と私が述べたのは、彼の存在は「暴君」ディオニスのためにあると考えるからだ。メロスは猪突猛進、直情径行の勇者であることは間違いない。私たちはその姿に憧れ、友情とは、勇気とはかくあるべし、と一度は思うことだろう。私も外聞に漏れずその一人であった。

 

 しかし、改めて「走れメロス」を読み進むにつれて、「本当にそうなのか」という疑問が、白い蛇のように鎌首をもたげた。私は、この作品を読めば読むほど、メロスに対しての共感、あるいは「共感」だと思っていたものが薄れていくのを感じた。そして逆に、王ディオニスの「邪知暴虐」、「奸佞邪智」と形容されるその人となりに、ある種の自分との近似性を感じた。

 

 王ディオニスはこう言う。「わたしだって、平和を望んでいるのだが」。

 

 確かに王ディオニスは人を信じることができず、妹婿をはじめ自身の親族や家臣を磔刑に処した。私はこの点に親近感が湧くと言うつもりはない。そうではなく、極端なまでに表現されている王ディオニスの負の面に、その人間臭さを感じるのだ。現実社会で私たちがメロスのように手放しで人を信じることはきわめて稀だ。誰が自分を騙そう、欺こうとしているかは、その時になってみないとわからない。人の心の中を透視することができない以上、私たちは常に精神的に不安定な状態で生きている。

 

 これに対し、私は希望をもって人と接している、人を疑ってかかるなど正常な人間の考え方ではない、という考え方もあるだろう。確かにそれはポジティブで受け入れやすい意見だ。しかし、誰かを陥れようとする人が多数ではないとしても存在するのは確かである。そのことを知っていながら、もしくは何も知らずに、「どんな人でも信じる」というのは欺瞞、もしくは単なる無知であるとすら思う。そう、セリヌンティウスのために走ったメロスのように。

 

 この作品では、「信実」を貫こうとするメロスと、それを打ち崩そうとする王ディオニスの対立が描かれている。私たちにとって、メロスは一見したところ感情移入しやすい。友情、努力、正義。どこかで聞いたことのあるような言葉たちが彼を彩る。しかし本当に私たちは彼に「感情移入」ができるだろうか。私はできないと思う。むしろ、メロスは私たちの「理想」ではないのかと私は思う。自分の信じることを信じ抜きたい、友人を大事にしたい、そのためには努力を惜しみたくない。そういった私たちの願望を集約したのが「メロス」という存在ではなかろうか。すなわち、メロスは私たちの理想を体現した「偶像」なのだ。

 

 では、私たち自身は偶像の示す理想を達成できるだろうか。答えは否である。なぜなら、理想は達成できないから「理想」足り得るからだ。メロスが「偶像」であるとするなら、彼は「私たち」ではない。「私たち」ではない、というのは、彼を私たちと同列に扱うことができない、ということだ。彼は私たちが到達しえない彼岸にいる存在であって、決して「私たち」ではないのだ。そして、私たちは「私たちではない者」と感情を分かつことはできないのだ。

 

 翻って、王ディオニスを考える。彼は誰も信じることができなくなり、王という権力を用いて数々の人々を処刑する。もちろんそれは道義に反する。しかし、彼はその国でたった一人の王だ。その立場がいかに彼を孤独にさせたかは想像に難くない。王というのは前近代においては絶対的な存在であり、それがゆえに絶対的に孤独である。いつ彼の地位を簒奪する者が現れるかわからない恐怖におののきながら生きることがその宿命である。

 

 そしてこれは現代に生きる私たちに通じるものがあるのではないだろうか。家族や友人、学校や職場、地域のコミュニティがあるのはもちろんだが、私たちはその中でもなお自己の存在を顕示していないか。いや、むしろ私たちは孤独に耐えられない生き物なのだとすら言えるのではないか。つまり、自己が確立しているという感覚を得なければ自己を保持できないということだ。そして、自己の確立は他者との関係性の中でしか実感できない。私たちは原初的に他者の存在を求める生き物なのだ。

 

 王ディオニスに話を戻す。彼は疑心暗鬼に陥った残忍な王として描かれているが、孤独に苛まれる者として、「私たち」の範疇に存在するのではないか。彼は本来的に平和を愛し、民の平穏を求める者であると同時に、孤独に耐えられない一人の人間なのだ。この点で王ディオニスはメロスとは決定的に異なる。冒頭に述べたように、この作品は、「偶像」としてのメロスを描くことで、それに対立するものである王ディオニスの人間味を際立たせようとしたものなのではないかと考える。そして、王ディオニスこそ、孤独に打ち勝ちえない人間本来の姿をさらけ出す存在としてあるのだ。

 

 この作品は単なる勧善懲悪、ハッピーエンドの物語ではない。王ディオニスを通して、人間のあるがままの姿を密かに、しかし毅然と活写した作品なのだ。